この世に無二の物体を作ることが創作の本質ならば、もはや写真制作は創作ではない。
ところで写真という手法は、ヒトの視覚的記憶への影響においては、他の追随を許さない。
人の記憶とは、無意識的自我が選択したモーションの断片であり、(即ちそれは、頭の中の写真と言って差し支えないだろう)その断片は時間を経るに従って選別を重ねられ、かつデフォルメされていく。
そして、最後まで選び抜かれたそれは、画としての形すら持たず、「そうであった」という事実=factとして保存され、無意識の一部として我々の自我に溶け込む。
しかし、 当初、その断片に残っていたあの娘の笑顔は本当にそういう意味だっただろうか。この断片に写っているあの失敗の原因は本当に君が考えている通りだったのだろうか。
そう、 立ち戻って考えれば、記憶とは、誕生時点ではfactではなく、己の解釈によって作られた真実=truthであったはずなのである。
すなわち、記憶システムとは、truthをfactに変換してしまう魔法の回路なのだ。
そして私はその回路を利用して、「常識的にはfactになり得ないtruth」=物語をfactに変換したい。
例えば、ある恋人達のお互いを思いやる暖かな気持ち、尊敬と充実は、世界の外側にいる僕にとってはtruthですらない、全くのfictionである。しかし、それが写真で表現されていれば、誰しもがその世界の登場人物的視覚記憶=truthを手に入れ、記憶回路に挿入し、自分のfactに変換できるかもしれない。
また同じように、どんなおとぎ話でも、写真で良く表現されていれば、望む者のfactになり得るだろう。
この試みは、物語を、鑑賞して楽しむものから僕達が生きるものへと革新するものであり、僕たちが宿命づけられた人生の一回性を無限に拡張する反撃の烽火である。
つまり、今日における写真とは、この世に無二の物体を作るものではなく、この世に無二の、あなたの記憶を無限に耕す手段、なのだ。
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